バンラビクタル

一中36期  杉森 久英(作家)

 私が一中へ入学したのは、1924(大正13)年である。 あこがれの桜の徽章の帽子をかぶることができて、ほんとうに嬉しかった。
 制服は黒の小倉服で、ボタンで留める白のゲートルを着けることになっていたが、入学できるかどうかわからない者が、前もってこしらえておいたってしょうがない。 合格してから注文するのだが、すぐできるとは限らない。 それまでは小学校のときと同じく、和服に袴で登校してよろしいというのだが、靴と帽子は正規のものを着用すべしというので、はじめのうちは着物に袴、靴という珍妙な姿で通学した。
 それから10年あまり後、私は学校を出て、埼玉県で中学の教員になったら、4月の新学年に、新入生がみな、着物に靴という姿で登校して来たので、大いになつかしく思ったものである。
 新入生のうちは、何もかもが珍らしく、たのしかった。 生徒はみな、校章の焼き判の下に自分の名を書いた表札をもらうのだが、それを父親の表札のそばへ打ちつけると、なにか自分の人格を認められたような気がしたものである。
 英語を習うのも、うれしかった。 明治維新から60年ばかりたっていて、英語の読み書きができるのは偉い人、という観念が行き渡っていたから、自分もそれを学ぶことができるということは、楽しいことだった。
 英語の先生は、下河しもかわ先生という名前だった。 色白の、背の高い美男子で、身だしなみのいい人だったが、青大将という仇名がついていた。 それは、先生は色白には相違ないけれど、くわしく言えばやや青味を帯びた白だったのと、いつも首をまっすぐに立てているところが、蛇が鎌首を立てている形を連想させたからである。
 剣道を習うのもうれしかった。 芝居や映画で、チャンバラの場面を見ては手に汗を握っていたが、ほんとに習うことになって、真新らしい欝金木綿の袋に入った、自分の背丈より長い竹刀を買ってもらったときは、いっぱしの剣士になったような気分だった。
 しかし、実際に授業がはじまってみると、はじめは型の練習ばかりで、一歩進んでエイと打ち込んだり、うしろに下ったりの繰り返しで、これじゃ体操と変らないじゃないかと、大いに不平だった。
 そのうち、面や小手をつけて稽古するようになったが、面の内側はほかの者の汗や脂でベトベト濡れて、臭いし、小手もくたびれて、ニッチャリしているし、寒中でも、シャツまでぬいで着替えなければならないし、つらいことばかりだった。 それに私は痩せっぽちの筋骨薄弱と来ているから、クラスのほかの連中と立ち合っても、優勢になることはめったになく、たいていなぐられっ放し、押し切られっ放しで、おもしろいことはひとつもなかった。 以来私にとって、「剣道とは負くることと覚えたり」以外の何物でもなくなった。
 もう一ついやなものがあった。 応援歌の練習である。 新入生はみな小型の横本の応援歌集を渡され、毎日放課後、5年生の応援団幹部の指導で、練習する義務があった。 5月か6月に、金石の海岸で北陸3県の中等学校角力大会があって、その応援にいって合唱するのだが、幹部の上級生たちにとっては、そのとき充分に練習を積んでいるかどうかが面目、あるいは学校の名誉の問題になるのだろう。
 しかし、私たちには迷惑千万であった。 学生のスポーツは余暇をたのしむためにあるので、それが主目的でもなんでもない。 まして応援団なんてものは、選手たちが汗を流して戦っているそばで、手足を振って歌ったり踊ったりしているだけで、自分ではいい気分かも知れないが、勝敗にはあまり役に立っていそうにも思えなかった。
 ところが、この応援歌の練習のために、私たちは毎日、全員放課後1時間も2時間も残された。 すきを見て家へ帰ろうとすると、校門のところに5年生が待ち構えていて、中へ追い返してしまう。 中には大きな棍棒を持っているのもいて、まるで地獄の鬼が亡者どもを追い回す風景そのままである。
 応援歌はどれもこれも、文語体で、古めかしいものばかりだったが、これは明治時代にできたものだからだろう。 創立以来半世紀の間に、卒業生や旧教員の中で、詩的才能のある人たちが残していったもので、作られた時は新鮮だったのだろうが、大正時代の私たちからは、古色蒼然たるものばかりだった。
 中には、なかなかハイカラなものもあった。

アポロの神に仕へてし
ヘラキューリスのその力
身にそなへたる わが桜章健児
 なんて、ギリシャ神話の知識がなくてはわからないようなのもあった。 金石の砂浜で、まわし一つの学生力士を讃える歌だから、上述の和服に靴と同じく、文明開化の遺風を伝えた珍風景だった。
 どうしてもわからない歌があった。 あまりわからないので、なんだろうなんだろうと繰り返しているうちに、おぼえてしまった。 −−こうである。 バンラビクタル
バンラグロル
パンラビクタル ヌー バンクロン
 これは、「われ太陽の守り子ぞ」という歌い出しではじまる歌の一部分で、各節の終りにつく繰り返しの句なのだが、新入生の私には、何とも理解し難い一句だった。 クラスの友達に聞いても、知らないという。 5年生の応援団幹部には、こわくて聞く気になれないが、聞いても、多分知らないだろう。 へたをすると、わしの知らないことを聞いたといって、なぐられるかも知れない。
 第一、何語かもわからない。 英語でもなさそうだし、お経の文句でもなさそうだ。 ギリシャ語か?ヘブライ語か?そうなると、あたりには知っていそうな人もいないし、手がかりもない。
 そこで勝手に日本語にこじつけて、こんな風に解釈した。
「バンラビクタル」は「万度来ばんたびくたる」だろう。 負けても負けても、勝つまでは、1万回も来るぞ、という闘志を示したものだろう。 ちょうど楠木正成が死ぬとき『七たび生まれ替っても……』といったように。
 「バンラグロル」は、「ふらふらになっても」かも知れない。 ボクシングで、ふらふらになることをグロッキーというから、それと関係があるのだろう。
 「バンクロン」は、悪党の名前のような気がするが、もしかしたら相手校の選手を罵る意味かも知れない。
 −−正確にそう思ったわけではないが、何かにこじつけないでいられないので、子供心に、こんなバカげたことを考えたわけである。
 ところが、今から4・5年前か、6・7年前か、正確な年月は忘れたが、その謎が、ふいに解けたのである。 散歩の途中だったか、ふと「あれはフランス語じゃなかったか」と思いついたのである。 私は大学のころ、気まぐれに、フランス語を勉強しようと、半年ばかりやりかけたが、途中で、人はなんでもかんでも出来るものではないと気がついて、やめにした。 その時のおぼろげな記憶が、ふいと蘇って来たのである。 気がつくと、この歌は実に簡単なフランス語であった。 わかりやすく書けば、こういうことになる。

ヴォアラ ヴイクトワール
  (そこに勝利がある)
ヴォアラ グロワール
 (そこに栄光がある)
ヌー ヴァンクロン
  (われら征服しよう)
(注)「ヴイクトワール」「グロワール」
   はそれぞれ、英語では
   「ヴイクトリー」「グローリー」
   になる。

   (※ フランス語表記については、脚注参照)


「なあんだ。 こんな簡単なことだったのか。 こんなことがわかるまでに、60年もかかるなんて……」
 私は散歩の足を止めて、天を仰いで哄笑したいような気分になった。

 
脚注「フランス語表記」 「ヴォアラ ヴイクトワール」のくだりを、フランス語表記すると Voilà victoire
Voilà gloire
Nous vainquons
名詞の前には必ず冠詞がつくはずなので  Voilà la victoire (victoire は女性名詞)
Voilà la gloire  (gloire は女性名詞)
Nous vainquons

「芝田 真 氏(泉丘18期)による」