令和2年7月1日
泉丘4期の中山登紀子さん(東京在住)=写真=から「夫の人生カルテ」と題する投稿をいただきました。大正末期生まれのご主人は一中、泉丘とは何の関係もありません。しかし、学徒出陣で従軍、敗戦でシベリア抑留を経験、帰国後は専門の土木・建設技術を生かして戦後日本の復興に尽くされました。その生きざまは一中50期前後の多くの同窓生と重なる部分があり、参考までにまず一泉同窓会のホームページに掲載することにしました。なお、登紀子さんは昭和60年に「単身赴任 残された家族の14年」を主婦と生活社から出版、話題となりました。本は同窓会にも寄贈され、一泉文庫に収録してあります。
学徒出陣、シベリア抑留、
停年までの単身赴任15年で日本の復興に尽くす
くにのため いのちささげし ひとびとの ことをおもえば むねせまりくる
昭和天皇御製碑の御前に進み、千鳥ヶ淵戦没者墓苑六角堂に額ずきます。昭和33年、谷口吉郎氏設計・厚生省造営の納骨堂です。古代豪族の棺を模したとあります。
先の大戦に命をささげた240万人は、ほぼ大正生まれの青年です。墓苑の大祭で花嫁姿の老女に会う。結婚式後ご主人は出征、戦死され独身を通してこの日に装うのだそうです。
大正末期生まれの夫は、戦中戦後の世代で、昭和一桁の私は戦いの混乱期の育ちです。夫は学徒出陣で、戦いに駆り出された時、大学で建設機械のシールドマシンの研究中でしたが、敗戦国日本の償いのため、66万人の敗戦軍隊の一人としてシベリアに抑留されたのです。中国の北部から、500キロ余りを歩きづめで、夜は地面に横になり、各自の飯ごうで炊いた飯で命を継いだと語っています。
シベリアでの労働は、零下40度の極寒の中で太オノやノコギリを担ぎ、大樹の伐採の重労働で体力つきて倒れ、6万人以上もが生きて日本への帰国が叶いませんでした。4年余り抑留の後で、夫は帰国できたましたが、先ず敗戦国日本の惨状にぼう然となりました。東京砂漠とまで言われた水不足、戦争孤児が上野駅にあふれ、道路、鉄道、国土の荒廃でした。
20代の夫たち青年は、直ちに水確保のダム建設に挑み、四国山中の吉野川ダムをはじめ、関東で相模湖ダム、城山ダム建設に邁進したのです。この頃に私たちは家庭を持ち、赤子幼児づれで山奥のダム工事現場で暮らしました。やがて東海道新幹線のトンネル工事に従事、東京に移って地下鉄工事につき、ようやく専門のシールド工法で実力発揮となりました。シールド工法は160年前に、ブルーネルがふなくい虫からヒントを得たと言われています。イギリスのテームズ河底の掘削に、この二枚貝が自分の体から出した石灰質の液で固めて進むのを見て感心したそうです。
昭和39年、日本では地下鉄東西線で初めてシールド工法が行われました。直径10メートルの筒形の巨大ジャッキーを押し進めて掘削後を固定する画期的な工事を、昼夜問わず行ったのです。所長である夫は、水が噴出する悪条件下、チーム一丸となって苦闘の末に見事成功させました。
同45年、大阪地下鉄工事のガス爆発事故は、新聞に「さながら地獄のよう」とあり、死傷者400人近い大参事でした。旧式の開削工事で400キロのコンクリート舗板が、通行人もろとも吹き飛ばしたのです。
さっそくシールド工事が採用され、夫は大阪へ転勤となりました。シールド工法技術士の夫は所長に任命され、大阪地下鉄谷町線、御堂筋線から阪神高速道路などに次々と工事が拡張され、とうとう単身赴任が15年に及び、停年になってようやく帰宅となりました。
過酷な人生を振り返り、一番苦しかったことはと夫に聞くと、食べるものがなかったことと答え、シベリアで空腹のあまり馬糞の中から豆かすを拾ったと言うのです。戦中に子供だった私も空腹の辛さは忘れられません。店に食べ物が溢れている現代の子供たちには実感がわかないと思います。
とまれ、戦後令和の今日、日本国は世界でも類を見ない最高級国の素晴らしさです。その誇りは私ども二人の共通の喜びでもあります。