金沢一中   金沢一中・金沢泉丘高校 沿革(113年)史年表
泉丘高校

   

西暦

和暦

 

適          用


 

 

 

 

 

 





1893 明治
26年
7月 金沢市新道に石川県尋常中学校として開校
真宗大谷派立大谷尋常中学校の生徒と校舎を引き継ぐ
初代校長富田輝象、在任1893〜1897、自由で剛健な校風を樹立
※新道は現在の本町1丁目、校舎跡地は西福寺西隣の駐車場


 

 

 

 

 

1897 明治
30年
10月 本多町の元藩老本多家の中屋敷跡に新校舎を建築移転、敷地環境は、モミ・マツなどの大木が多く、生徒は「本多が森」と愛称
※当時の本多町は現在本多町3丁目、一中校舎跡地は本多通の一部・、県福祉会館・県立図書館・本多公園。ただし、運動場は下本多町六番町の金沢市観光会館。本多屋敷の高い土塀内の校舎と運動場の間には道が一本桜橋の方へ通じていた。
※「モミの樹は残った」本多通には、車道へはみださんばかりのモミの大樹1本とアカマツ3本がある。 「本多が森」の名残で、そこから20m広坂よりの車道中央が校門だった。旧道が50mばかり残っている。
1899 明治
32年
7月 久田督第3代校長着任。在任11年。 細心の配慮と含蓄のある訓話で生徒を魅了


 

 

 

 

 

















 

 

 

 

 

















 

 

 

 

 


 

1907 明治
40年
  校名を石川県立金沢第一中学校と改称
1908 明治
41年
10月15日 厳霜碑建立、日露戦争戦没者を顕彰、碑文は国粋主義者三宅雪嶺、金沢一中生の敬礼を受け生徒団結の象徴となった。以後この日をもって学校創立記念日としている。
※現在齋行されている創立記念日行事の厳霜碑前の慰霊の式は、戦没者、並びに一中泉丘に在籍した教職員生徒の物故者すべてを祈念する。
※ 戦没者は日露の役から15年戦争まで、調査済み376名、一中30〜40期代は、若くして国難に殉じた多数の同期生への思いが深い。
1916 大正
4年
6月 第1回学生相撲金沢大会金沢一中優勝・以後昭和8年度をのぞき連続最多出場
    11月10日 大正天皇即位の大典。
この記念に新校歌を制定し、これまでの校歌を応援団団歌として歌いつぐ。
1922 大正
11年
  武徳会主催全国剣道大会金沢一中優勝。 剣道部は小手先の技に優れ昭和10年代まで中央で覇を競い金沢一中の名を高めた。
    10月15日 第30回創立記念式典挙行
1924 大正
13年
8月 全国中等学校野球大会(甲子園)出場、台北商業に敗退
1929 昭和
4年
9月 伊藤允美8代校長着任、前任校愛知一中改革者として知られていた。
「文教刷新、以て天下の一中たらしめる」の抱負を語った。
※この年を境に、日本の世情が一様に右に向き、国内のテロ、国外の軍事行動が喝采された。 学校での、自由主義的教育色を薄め、国家主義的・統制主義的教育重視への転換は時代の流れの中にあった。
1932 昭和
7年
7月 第3回全国中等学校剣道大会金沢一中優勝
1933 昭和
8年
4月 伊藤校長の教官人事異動に反対し、5・4・3年生がストライキ決行
    6月 伊藤校長退任・5年生退学者5名


 

 

 

 



















 

 

 

 

1937 昭和
12年
9月 富樫町新校舎に移転。 (富樫町は、町名変更により泉野出町と改称・現在地)
    11月 新校舎落成式
※現在創立記念祭に先立って行われる「一泉行列」の金沢市観光会館から学校までの道筋は、1937年次の一中生が厳霜碑と校旗を先頭に隊列を組んで新しい学舎へ行進してきた故事になぞらえたものである。
1938 昭和
13年
7月 中村禎雄第10代校長着任、県下では修行的練成による実践的精神教育で著名であった。
1941 昭和
16年
12月 太平洋戦争勃発
1942 昭和
17年
10月 創立50周年記念式典・行事挙行
彫刻家木村珪二(一中29期)塑像「練成」を記念寄贈
1944 昭和
19年
1月 陸軍士官学校合格者数39名で全国一位
※金沢一中の難関軍幹部養成学校への合格数は年によって変動があったが、他中学より抜き出ており、「天下の金沢一中」という呼称の根拠の一つ。 成績上位50人の内半分が第四高等学校へ、他の半分が陸軍幼年学校と士官学校、海軍兵学校へ進んだ。
  ※1932[S12]年度、一学年200名の内、
    四高20、陸士25、海兵11、海軍機関2、薬専7、高農3、高工22
    高商14,師範2、東亜同文ハルピン学院3、私立大及び予科22、
    官立専門8、私立専門8、その他9、就職者20、
      中学生勤労動員令により軍需工場、農場、軍需施設建設現場へ
1945 昭和
20年
1月 特別科学学級を1・2年生に設置、理数に優れた生徒を石川・富山で募集、兵役・勤労動員免除の約束、(1948年3月廃止)
※特別科学学級は米国との科学技術力の落差があまりにも大きいという反省から制度化。 全国5校指定。 金沢一中で普通教科を学習し、金沢高等師範で科学理論の学習や実験。遅きに失した。
    4月 富樫一中校舎を軍事目的に使用
陸軍経理学校設置・第9師団の一部疎開・農兵隊が校舎内に居住し校地の農場化をすすめた。
    6月 終戦直前の生徒動員先 
5年生は刈谷豊田軍需工場、4年生は津幡陸軍航空工廠
3年生は美川陸軍航空工廠、2年生は鶴来坂尻地中工場建設
1年生と特別科学学級は市内爆撃目標建物解体
    8月15日 ポツダム宣言受諾で日本敗北
    11月 GHQ日本の教育を監督下におく。
1948 昭和
23年
3月 第55回卒業式
    3月31日 金沢一中55年の歴史を閉じる。














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(同年) (同年) 3月31日 金沢第一中学校を金沢第一高等学校に切り替え
    4月1日 大河良一校長就任(金沢泉丘高等学校第一代校長に数える)元第四高等学校ドイツ語教授、前金沢第一中学校長
    5月15日 通信教育課程開校
      ※新制への切り替えは,金沢市内の旧制中学の一・二・三中の3・4・5年生が、一高の1・2・3年生となった。 金沢市内のみならず県内各中学出身者も少なからず入ってきた。
なお、旧制一中の2年生は金沢市立工業に併設される中学の3年生となった。 二中は金商、三中は県工へ
※校章は美術の宮沢先生の考案。 三枚の柏の葉と中心の点は旧制の東京の第一高等学校の校章から、三弁の桜の花びらは一中の校章から取り入れ、組み合わせた。翌年そのまま泉丘高校にひきつがれた。
    7月 学校新聞「泉の原」創刊
    8月 全国高等学校野球大会(甲子園)2回目出場


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






















 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






















 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






















 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

1949 昭和
24年
4月 高等学校3原則(総合・小学区・男女共学)に従い金沢泉丘高等学校発足・山本外吉第3代校長着任
山本校長第一声「新しき皮袋には、新しき酒を」
高い知性と豊かな教養で戦後のすさんだ生徒を穏健知的に訓育

※周年等の数え方は新制の高等学校時代のみに関することは、1948年度の金沢一高時代を第一回、第一期とし、泉丘と名称が変わってからの第一年目の事項は第二回、第二期と呼ぶ。
1951 昭和
26年
10月15日 泉丘高校校歌制定
作詞大沢衛(金沢一中29期)・作曲安藤芳亮(本校教諭)
※校歌歌詞三番に、講堂に安置してある『練成像』の趣旨を表現。 筋骨隆々と練りあげているが、物静かな瞑想する青年という設定。 大沢衛(金大英文学教授)と木村珪二(後、東京教育大教授)は金沢一中同期生。
1953 昭和
28年
4月 小学区制・総合制崩れ中学区制・単科高校への移行はじまる。
普通科高校間の中学からの生徒獲得と、大学受験競争はじまる。
    4月12日 厳霜碑復活。田中清大金沢一中同窓会長の尽力による。
碑は戦後占領軍の撤去指令で、第一体育館の床下に梱包隠匿。
    6月 陸上部県高校選手権(高校総合体育大会)で優勝、以後1968年まで16連勝
    8月 全国高等学校野球大会(甲子園)3回目出場
1955 昭和
30年
2月13日 一泉同窓会結成、初代会長英安吉(金沢一中18期)

※英執行部の母校への思い入れは強く創立70周年記念事業の前倒し推進、幹部のひいきの運動部の応援援助など情熱を注いだ。
※二つの同窓会合併には若い泉丘同窓会の内部に抵抗があった。 戦中戦前派と戦後派の感覚の差から生ずる行き違いだったのだが、一中先輩の甲子園応援がてこになったこと、高校三原則が崩れ始め、高校間の競争激化という情勢の変化があったことで合併話が成就した。
※金沢一中の後継校、県を代表する伝統校だという県下の人々の認識、校内の教職員・生徒の意識は、名実共に泉丘高校の位置を押し上げた。

1956 昭和
31年
2月 「心身一如の発達につとめる」の校是きまる。 3年のあるホームからでた「目標が欲しい」という要望に山本校長が応えた。
※「心身一如」は老荘思想や禅宗など東洋哲学から引き出された理念あるいは修行目標であるが、金沢一中以来の「文武両道」とも相通ずる。
    4月 富田輝象初代校長頌徳碑「公心巍然」、久田督3代校長銅像復活
※戦時中金属供出命令で、富田・久田督両校長の青銅像が供出され台座のみになっていた。
1958 昭和
33年
3月10日 通信教育部第1回卒業式挙行


 

 

 

 

 

 




















 

 

 

 

 

 

1959 昭和
34年
4月 商業科廃止、普通科のみの高校となる。
    4月11日 〔創立70周年記念図書館〕落成式、
1階同窓会事務室と会議室、音楽教室・書庫、
2階閲覧室・司書室・中二階書庫
 建設資金は県費・一泉同窓会募金・PTA拠金によって調達。
  新図書館完成にともない剣道場と柔道場復活、戦後占領軍指令で武道禁止となり、金沢一中時代の柔道場は書庫、剣道場が閲覧室に転用されていた。 部は復活していたが稽古場がなかった、
    11月 化学部日本学生科学賞中央入賞、以後1971まで化学部・生物部・地学部等が競って中央で連続入賞。
※科学諸部の自主的な活動の高い成果に畏敬を込めて科学校泉丘愛称定着
1960 昭和
35年
3月 大学・進学者数飛躍的に伸びる。
金沢大学合格数が初めて100を越えた。特に工学部へ多数進出 
1961 昭和
36年
6月4日 創立70周年記念【逆流像】建立、木村珪二(一中29期)作、同窓会有志拠金による。建立の後、次は人生の完成を表象する像が欲しいということになり快諾を得た。
1963 昭和
38年
  県外難関国公立大学への受験進学が増え始める。 金沢大学受験特化型が崩れだす。
    4月14日 通信制NHK学園高等学校開園
    8月 全国高等学校野球大会(甲子園)出場4回目の出場
    10月15日 創立70周年記念式典 [金沢一中泉丘高校70年史]刊行

※スポーツ校泉丘は1949以来誇らしい別称であったが、1965までであった
「昭和38(1963)年が絶頂だった」と故吉本サンペイ先生談、陸上部・水泳部の奮戦がなお続くが、やがて総合得点での優勝はとれなくなった。

1965 昭和
40年
10月1日 通信制振興会(全日制のPTAに相当)結成
1966 昭和
41年
4月 張江啓5代校長着任 質実剛健の伝統的な気風と理知的な配慮で生徒を指導
    11月 ロールスロイス事件−泉丘高生が百貨店に展示されていた高級車に「間違っている」とペンキをぶっ掛け補導される。
 ※当時学園紛争が全国の高校で起きていたが、泉丘高校で激化しなかった理由の一つは、例えば、卒業式の答辞代表をホーム会長会議で決め、その内容に関して干渉しなかったように、生徒の良識に任せていたことがあげられる。 部活動の運営も同様で上級生幹部が話し合いで決めていた。 外からの働きかけはあったが集団として反応することはなかった。
しかし、生徒指導の柱の一つにしていた「質実剛健」を盾にとられた高級車事件には言葉がなかった。
1968 昭和
43年
4月 理数科設置−科学技術での新分野を切り開く人材を望んでの発足であった。
1973 昭和
48年
3月 一泉創立80周年・泉丘高校発足25周年記念植樹事業と、本多町跡地公園に[桜章校跡地碑]建立、題字は宮太郎(一中51期)第3代一泉同窓会会長の揮毫。
1974〜1984     校舎全面改築第一体育館→第二体育館・柔剣道場→特別教室棟→普通教室棟→管理棟→講堂の順で
1978 昭和
53年
4月1日 通信制「泉丘通信30年の歩み」発行



















































1979 昭和
54年
1月 第一回共通一次試験

※高校学園紛争の理由の第一に受験地獄の抑圧があげられていたのに対し難度が低く教科書並みという建前ではじめられたのが共通一次であった。
しかし問題が噴出する。高校での模擬試験回数が一次型,二次型、小論文と倍増する。大学が困惑したのは学生の思考・行動のステレオタイプ化である。
1984 昭和
59年
6月 新校舎落成式典、記念事業としてシンボル像[風]建立、他
    10月 一泉創立90周年式典、
記念行事として坂本三十次労働大臣(一中47期)、奥田敬和郵政大臣(一中52期)講演
富田輝象初代校長の立像を復活、
1989 平成
元年
4月 宮崎光二11代校長による校内機構改革で、3年の担任固定型を担任3年間持上がり型に変える。
80年代後半より国立難関大学合格数は伸長しはじめていた。
 ※担任3年間持ち上がり型は、他県では1970年代に普及してしまった方法。
  保守的な本県各校では先生方の実力を危ぶみ、容易に採用しなかった。
先生方の教科指導力が高く、学年主任の適切なリーダーシップがあれば大学入試で成功する。
 ※全国拡散型 泉丘高の進学指導は本人の希望する大学に合格できるようにという方針であったので進学先が全国拡散型となった。 ここでは、全国に散在する難関でしかも特色ある大学へどれだけの数を合格させられるかが焦点になる。 世間的には東大特化型が注目されるが、個性尊重という点では泉丘方式に軍配が上がる。
1993 平成
5年
  一泉創立100周年記念式典、記念諸行事・事業は、渋谷亮治第4代会長のもと、同窓会主導で遂行、同窓生・教職員・PTAからの募金・協力額は同窓会と学校独自の分を合わせて、およそ1億6千5百万円。 一泉基金設立、図書館改修、金沢一中泉丘高校百年史刊行、その他多岐にわたった。
石の彫刻「山のように、山の如くに」寄贈され中庭に設置、作者新妻実(一中56泉丘高2期)は国際的に知られていた。
1998 平成
10年
10月 金沢泉丘高校創立50周年記念 広中平祐講演会他
    10月10日 通信制課程創立50周年記念式典、『心身一如』碑建立
1999 平成
11年
11月4日 通信制七尾サテライト校開校
2001 平成
13年
3月 弓道場「如泉堂」竣工、弓道部・弓道場の復活にあたっては、金沢一中弓道部の先輩たちの並でない援助と指導があった。
2002 平成
14年
4月 新村健了第18代校長着任 授業重視方針で、週日7限授業、土曜エクステンション授業を始める
化学部研究物−日本学生科学賞・環境大臣賞にかがやく。以後中央入賞が続いており、1960年前後の「科学校泉丘」の復活である。
2003 平成
15年
4月 泉丘高校スーパーサイエンスハイスクールに指定される。
    10月15日 一泉創立110周年記念式典、
記念事業は同窓会募金2400万によって、【久遠像】建立、トレーニングルームの充実・遠征用スクールバス購入、グランド・ピアノ更新他、
※ 木村珪二(金沢一中29期)3部作とは、【練成】【逆流】【久遠】の3像を指し、ひとのライフサイクルのあるべき姿を表象している。 それぞれ啓泉講堂、中庭
2006 平成
18年
  2005年度大学入試結果難度の高い大学合格者数を示した。 一学年360前後。
国公立に関しては全国拡散型である。 東大20は初。
国公立―金沢大82、東大20、京大13、阪大21、名古屋大11、
東北大9、北海道大15、神戸大16、一橋大8、筑波大8、
国公立計310
私立―慶応17、早稲田24、同志社50
                       私立計455
             (以下余白)